setouchi

鏡に映ったその目は獲物を狙う目をしている。攻撃態勢。流れているのはいつものグールドのモーツアルトピアノソナタだけど。優雅ないつもの朝。あるべきものがあるべき場所にある、いつもの部屋。自分の部屋。9日間の一人旅で私はどんな目をして、海や街やモノや人を見つめてたんだろう。じっくりと鏡を見る余裕もなかった。夜はいつも酔っ払っていた。日焼けか酒か、化粧しない顔はいつも赤かった。日常に戻り、この旅はなんだったのか考える。行く前は帰ってきたら少し逞しくなっていると思っていた。だけれど変わらない、早速ナーバスになっている自分がいる。何のトラブルもなく、むしろラッキーなことが多かった。フェリーやら路面電車やらいろいろ乗ったけど、ひたすら歩いた。雨の日が一日もなく、ひたすら日射しを浴びた。日射しの記憶、歩いた地面の、足の記憶。湖面のような瀬戸内の海を滑るように進む船の記憶。

あの海はなんだったのか。

離れる陸、名前もわからない島々。上のデッキで風を切り運ばれる、私という体。

四国から本州に戻る時、少し身がちぎれそうだった

南青山

蔦の絡まる奥まったところにあるドア。初めて来た時は開けるのに勇気が要った。この扉を開けていいものか。確か雨が降っていた。もうコロナの時期だったのか横の窓が半分開いていて雨粒がぴちゃぴちゃ跳ねるのが見えた。その時はきっと庭のほうを向いて座ったのだ。大きな窓の外には急な斜面のように迫り上がった庭が見える。その時も鮮やかな緑だったような。その出入り口に一番近い窓際の席にTさんと向かい合って座る。今度は庭を背にして。Tさんは目の前の庭を目にして何か感じ入っているようだ。桜の季節だったらとかあのもみじはなぜか微かに色付いているとか。最初にこの店を訪れる時の体験に相応しい。さっきまでいたお店は料理とワインはとてもおいしかったけど最後にサービスで出されたコーヒーはおいしくなかった。でもとにかくとても素敵なお店だったから地図で確認したらお気に入りに登録してある蔦珈琲店がすぐ近くだったので、おいしいコーヒーと甘いもので口直しするのもいいかと思ったのだった。

ちょっと地図を見せただけでとことこ歩いてすぐ辿り着けるという、方向音痴の自分からすると変なところに感心してしまう。どちらもケーキセットを頼んでTさんのカップは真っ白に金の縁取りの、私のは白に薄青で花の描かれたカップ。真っ白というのも珍しいし、薄青のほうの白い余白の取り方が絶妙だね、となんだかほっとひと息というよりは緊張感のある会話。つい裏返してみたくなる。日本製のokuraというところのもの。カップが小さめなのも家で飲む大ぶりのより緊張感があるとか。

こちらから振り返らないと庭は見えない。と思ったら前方の壁に円形の鏡が飾ってあることに気付く。そこには見事に鮮やかな新緑が映し出されている。ほんとうにまんまるな鏡。まるで窓のようでもある。借景という言葉が思い浮かぶ。幸福な空間、ああいう喫茶店は京都によくある、一緒に京都行くのもいいかも、と思いがけず寄り道した喫茶店から見えない空間が広がっていったみたい。それは何かとてもうれしい。

店を出る時立ち上がって鏡の前に行ってみたら鮮やかな緑の背景に自分自身がくっきりと浮かび上がる。映っている、だけのことなのに。あまりにも己に正対するようで息を呑む。たぶん季節によって背景は違ってくるんだろう。それでも自分は変わらないままだろうか。

楽しい時間はあっという間。という同じ言葉。

毎回魔法が起きるような

週間予報

いつの間にかしっかりとした雨音。Tさんからのラインに週間予報が貼ってあり雨マークだらけ。まるで梅雨みたいですねって。ほとんどごろごろ、ベッドの中。でも食べることだけ沸いてくる。ウーバーを見てカートに入れるまでして思い止まる。冷蔵庫の中には冷麺があった。流水で解凍できる鰹のたたきもあるし。このところ外食が多くてストックが減ってなかった。生理前。もう来てもいいのだけどまだ。眠たい。一昨日も昨日も暴食。今日も食べ物のことばかり考えている。寝ていても辛い。思えば四月の終わりにTさんと会ったときからもう疲れていた。でもゴールデンウィークだしと張りきって出勤。楽しいことも多かった。飲みにも夜遊びにも行ったし。その疲れがどっと出たのか。
今度は雨の空を見上げながらゆっくり、
セックスをするのかしら。いやいやどこか素敵なお店に連れてってくれるに違いない。
美容室のタブレットで見た銀座の香港料理店に行ってみたい。蟹を貪るの。
真っ白な空を眺めながら、ベッドの中で食べ物にまみれたい。
今日の予報は

euphoria

すはだかにショール

わずかな桃色にいろさし

とおるすきまはぜ

ぬきあしくつおん

とんかちにちようだけの

もっこうざいくして

みみすましむおん

とうふうりのみ

さやうなら

きはだのざらり

くわうおやゆび

もものしたうえ

ひゃっこうのしたえ

まどろまどろの

ふわりゆりいす

こうしんしょくさるる

あなたの指が

つむるまなうら

のさきなりて

ひらひら

 

おじさん

おじさんは足を骨折してリハビリ中で引きずりながら歩いている。それでも歩くのが速くてゆっくりと思うと遅れをとる。飲みに行きたいと言うから3回来てくれたら行ってもいいと言ったらほんとに3連続で来た。連続で来るとは思わなかった。上野に〇〇っていうおいしい焼肉屋があるからと。大きな焼肉屋。空は怪しい雲。窓際の席で早々に雨が降り出す。酔ってくるとますます言葉は汚くなるし下ネタは出るし、窓の外の人通りを眺める。肉の脂が重たくなってくる。休日でさすがに賑わっているけど、特別おいしくもない。気分の問題だろうか。写真を撮りまくるおじさん。

サンシャイン水族館に行きてえんだよなあ。テレビで見てよ。ラッコだかなんだかが上をまわって...以前テレビで見て行きたくなったらしい。行かねえか?と言われても。たぶんおじさんは写メを撮りまくり私はそれを温かい目で見守ることが予想される。水族館は好きだけど。生き物が好きらしい。昔熱帯魚飼ってたとか。

帰りお腹の辺りが痛くなりせっかくの焼肉でこんなことになるなんて。電車で座れたら落ち着いたが頭はグロッキー。せっかくの焼肉が。電車の中では滅多に足を組まないけど空いてきたところで足を組む。やけっぱちな気分でスマホをいじる。電車で足組んでぶらぶらさせてる人は問答無用で嫌悪する。優雅でいたい。私の足はきれいだもの。シャツワンピースの裾が捲れている。

おじさんのクンニリングスはとても気持ちいい。とてもじっくり舐めてくれる。自分でも舌が気持ちいいのだと言う。そんなのは初めて聞いた。気持ちいいところに当たって腰が動き始めると我慢できなくなる。イッてるのかよくわからないけど何度もそんな状態になる。いつまで舐めているのか、終わるとお尻がひんやりして、下は大きなシミになっている。

Siri!ロックをかけて。静まりかえった部屋は耐えられない。懐かしい、ブラーのsong2がかかって気分も上がる。ロックはいいな。ふとおじさんの背中を思い出す。毎回背中を流してくれと頼まれる。他の人も背中はいつも流してるけどおじさんの背中は一味違う。なんでこんなに大きく広く見えるんだろう。こういうのが肉体労働してきた人の背中なんだろうか。海みたいに。洗いながら感心してしまう。いい背中ですねと言ったら嬉しがっていた。なんだか写真に撮りたくなる。

デートはうーんと思ってしまうけど。また通ってくれたら考えようか

湯島

ピンク色やら黒色やら、ネオン。あの辺は昔花街とはどこの話だったろう。Tさんはお酒と飲み屋とそれに付随するもろもろに詳しい。細い裏道まで、ここを行けばどこへ行くとか方向音痴の人間はただ手を引かれてついて行くだけ。ビールと日本酒何杯かでもう手が止まってしまって、そんなたくさん飲んだわけじゃないのに。後で、体調がよくなかったかな?という言葉にああそうなのか、体調が悪いんだと気付く。寝不足が一番よくない。仕事中も少し目眩がしたりした。朝の筋トレもサボりがちで、いつものスクワット三十回も体が重い。

私のこと好き?、とか可愛げがあって、ただ受け流してくれてもいいのに。重たいとかめんどくさいとか邪推して、結局ひとの考えることは分からない。その人が今どんな状態にあるのかも、たまに会うくらいでは分かりようもないし聞こうとも思わない。ただ会う約束がなくなってその後連絡もないだけで。それだけでなんでこんな複雑な感情になるのか。一体Hのことを考えているのかTさんのことを考えているのかその他の通り過ぎたあるいは通過中のあるいは自分自身のことを考えているのかそれすらも分からない。

風景が通り過ぎる。Tさんのキスは長かった。きっと味わうことが好きだから。きっとあのネオンと裏通りの猥雑さをずっと覚えているだろう。あの人と最初にした時もとても複雑な感情だった。あの時はスカイツリー。肝心な別れ際。電車が動き出すまでホームに立って恥ずかしいのかよくわからないけど無表情で手を振ってくれる。電車の中でこちらも気恥ずかしいし可笑しくなってしまう。ニヤけた顔が窓に映っていたかもしれない。何か大昔に似たようなことがあったかもしれない。

素肌をあらわすときもはっきりとわかるほど濡れた場所に触れられる時もそこへ顔を埋められるときも、とても恥ずかしかった。

左手がひどく荒れている。いつも左手だけ荒れる。繋がっている時も時折他のことを考えていた。違う感触のこと。

随分、入り組んでる。

ナダ

画面に映った顔は変わってないようでやっぱりどこか変わっている。確実に。老けたのはそりゃ年取ったもの。でも整っているようにも見える。ウェブカメラなんて、というかPCに内蔵のものだけど、いつ以来に使っただろう。誰も話し相手もいないような時、チャットにはまって裸を見せたり、ウェブ配信までしてる時もあった。20代から30代。まだ写真を始める前段階。結局自分を見ていた。気を引くためのものが自分の持って生まれた体に意識がいくようになった。肉体表現として、何かを掴んだのかもしれない。ウェブカメラの前の自分は、久しぶりにPCの画面に映る自分は以前よりも自由にみえる。座るのに飽きるとふらふらと歩いたり踊ってみたりする。とても自由。誰かが覗いては去っていく。何らかの、繋がりであることは昔と変わらない。でも今は自由。誰かのことを考えながらマスターベーションすることだってできる。

画面に映る自分を見ながらするのはとても興奮する。見られている、ということもあるけれど、それをまた見ている。見られている自分を見ている。私の体はきれい。エロティック。扇情的なポーズもとってみる。そういえば夢はストリップダンサーとか冗談半分で呟いたりしたんだった。この部屋の箱の中でならそんなこともできるかも。変わってない、と言われてしまうかもしれない。そうね、変わってない。時間の流れの中にいる。言ってみれば人生の。風景が通り過ぎる。

ナダによるナダのための

いつか燃え尽きてふっと終わる。