悶える

「流れる」は幸田文の小説、成瀬巳喜男の映画。「乱れる」も成瀬の晩期の映画。どちらも高峰秀子が出ていた。とてもシンプルな言葉なのにどちらも女でしかあり得ない。流されるのではなく流れる、乱されるのではなく乱れる。受動であるとともに能動。

30半ばくらいでM男性と知り合いしばらく遊んで向こうから姿を消しまた違う人と出会い私にしては長いこと会ってたけどまたいなくなった。その時期にはSMバーに通いあなたはライトじゃなくてハードな、とMの烙印をおされたりした。足を舐められるのが好きになったり能動的なセックス、ほんとの意味でセックスを味わい楽しめるようになったのもその時くらいから。感じ方が変わった。30センチの竹の物差しを手にしてお尻を叩いたり自分で叩いてそれをウェブカメラで映したり。縄で縛られて痕を慈しみながら夜中の知らないバーで飲んだこともあった。

縛られるとなぜあんなに感じてしまうんだろうか。目を閉じてどこかへ行ってしまう。縛っている、というか縄の行為をしている時目の前に現れた顔のS男性のギラギラした燃えるような目を今でも覚えている。結局、アングラな狭苦しい世界に嫌気がさし違うもっと直接的なバーに通うようになった。

少し触れたくらいではあったにしろ鞭や縄のような儀式的な遊びからだいぶ遠のいた。でも自分のマゾ加減はむしろ今のほうが自覚している。それが一番気持ちいい。とにかくお尻を叩かれたい。でも昨夜の体験はまた違うものだった。四つん這いで尻を突き出して何もかもひろげられてただ見られている。自分では見えなくても見えている。そこはヌメヌメと触られればわかる、触られなくてもわかる。溢れてくるものが。

見られるだけでおかしくなってしまうなんて、我ながら呆れる。相手がいなくては成立しない、視線の威力。もちろん溢れる液体は次のことを待っている